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NAGASAKI -BATTLESHIP ISLAND-

A memory and step of the history...

軍艦島ファイル

"軍艦島(端島)とは"

 端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。
明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。
2015年5月に国際記念物遺跡会議(イコモス)は軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産」を、世界文化遺産に登録するよう勧告した。
同年7月5日、第39回世界遺産委員会において軍艦島(端島)は世界遺産に認定された。

"歴史"

1810年(文化7年)

 端島で石炭を発見。当時は草木の無い水成岩の瀬であった。

1887年(明治20年)

 鍋島氏が、第1竪坑を開坑。(結果的に44mまで開削するが、明治30年の火災で閉鎖)

1890年(明治23年)

 三菱が鍋島孫六郎から10万円で買収。

1895年(明治28年)

 第2竪坑開坑。(結果的に168mまで開削、昭和9年に改修完了し、追掘616mに及び、閉山まで採掘)

1896年(明治29年)

 第3竪坑を開坑。(161mまで開削し、昭和10年まで採掘)

1916年(大正5年)

 日本最初の鉄筋高層アパートが完成。

1925年(大正14年)

 第4竪坑開坑。(353mまで開削、通常は排気用として使用。第2竪坑に支障がある場合に代用として使用。閉山まで採掘)

1974年(昭和49年)

 端島砿1月15日に閉山。4月20日に無人化する。

"19世紀まで"

 端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。
『天保国絵図』にも「端島」とある。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている。
なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。
1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた。
36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である。
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。
端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。
譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長した。
この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられた。

"20世紀"

 1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。
ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。
1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。
石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭。
人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。
炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。
ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。
1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。
閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。
しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。

"閉山後"

 近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。
廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。
無人化以来、建物の崩壊が進んでいる。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された。
所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。
建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。
2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。
島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。
解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸した。
その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調である。
なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。
軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上る。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。
2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年(平成21年)1月に記載された。
しかし、2015年3月31日に韓国政府が端島の世界遺産登録に反対を表明し、朴槿恵大統領、尹炳世外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコ、国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに端島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行っており、日韓の外交問題となっている。
長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む島内全域を撮影した端島のGoogleストリートビューが、2013年6月28日に公開された。
長崎市は2014年1月から5月にかけて長崎大学インフラ長寿命化センターに委託し島の3次元データでの記録化を行う方針である。

"島内の建築物"

 端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。
7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである(ただし1916年の竣工時は4階建て)。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。
第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。
なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。
また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。
トイレも多くが落下式であったが、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。
炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)に建てられたもので、正式名称は『肥前端島灯台』。
灯台は、1998年に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた。
木造や鉄骨造で建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題や無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。
なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。
鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋計画の問題のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる。
56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていたが、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる。
70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている。
30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている。